■本田親徳(ほんだ ちかあつ)
神憑り三十六法を定義し、霊界に正神・邪神の百八十一階級の区分があることを説いた神道霊学の最高峰、本田親徳は、『鎮魂帰神の作法に必要な用具たるべし』と、岩笛による帰神法を復活させました。
「ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ、ムユ、ナナ、ヤ、ココノ、タリ、モモ、チ、ヨロツ」
を、心に念じながら、岩笛の響きの中に「ユー」という音を含ませて吹くようにすることが本田流における口伝となっています。
ちなみに親徳の岩笛は、二拳を合わせたくらいの大きさのもので、穴は斜めに抜け通り、少し青みを帯びた黒色のもので神光奇しき逸品であったそうです。
■出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)
大本教の創設者、出口王仁三郎は、親徳の孫弟子であり、彼から鎮魂・帰神法と審神学を集中的に学び奥義書を授かります。彼は岩笛について次のように述べました。 「“天の岩笛”なるものは一に“天然笛”と云い、又、“石笛”とも称えて、神代の楽器である。
之れに口をあてて吹奏する時は、実に優美なる声音を発するものである」
「此れ岩笛を吹奏するには、余程鍛錬を要するものである」
「吹きざまによりて千差万別の音色を出すものであるが、総じて耳に立って喧(かまびす)しい。
むやみに“ピューピュー”と吹くのは良くないのである。」
「“ユーユー”と長く跡の音を引いて“幽”と云う音色を発生しせめるのが、第一等である」
(本教創世紀)
■平田篤胤(ひらた あつたね)
江戸後期に国学を大成し、後世の古神道に絶大な影響を与えた、平田篤胤の「古史伝」には
「故(かれ)、その八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)は
天岩笛(あめのいわぶえ)を製(つく)りて、
皇美麻命(すめみまのみこと)に奉りて、祝ひ給ふ」
「天岩笛は、磐もて製れる笛なり」
「天岩笛と云(いう)物の大凡(おおよそ)その形は、歌口のかた細く、末太く開きて、横に穴なく、
謂(いわ)ゆる螺角(ほら)に似て、石なるものと知られたり」
と記されています。篤胤が上記のように描写した岩笛は、友人である屋代弘賢(やしろひろかた)が見せた、
「倭健命(やまとたけるのみこと)が東夷を平らげて帰る途中で上野国のある古社に奉納した」
と伝えられる岩笛です。その岩笛は、丸く、やや長い石で、重さは約26kgほどもある大きなものでした。吹いてみると、音は高く響き、風格あるものであったそうです。それは、あきらかに人工的なもので、神が作ったものには思えませんでした。
そして製作年代的には五百年前、千年前などという近い年代の物には見えず、やはり倭健命の時代のものであることを思わせる岩笛です。その後篤胤は、まさに神が作ったとも呼べる岩笛を得ます。それは、
「石質は少(いささ)か右のに劣りて見ゆれど、その形妙にて、盲人ならずば、
見紛うべくもなき神作の物」
と表現されており、その取得の次第は『天磐笛之記(あめのいわぶえのき)』
という書物に記されています。この岩笛からは清澄な、神さびた音が鳴り出でて、かの幽界の出入者、仙童・寅吉が、
「これほど自然が作り上げた物で面白い物はない」
と歓喜し、人の言葉など耳に入らないほど吹き続けた、という逸話も残されています。そして、篤胤はこの天磐笛を得たことで、それまでの屋号「眞菅乃屋(ますげのや)」を「気吹乃屋(いぶきのや)」に変更したとされます。
現在それら二つの岩笛は非公開で、篤胤の子孫の方が守る平田神社で厳重に保管されています。篤胤はそれほど岩笛に興味を持ち、また大事に扱っていました。
■友清歓真(ともきよ よしさね)
三島由紀夫の『英霊の声』の作中の岩笛や帰神法の描写は、大本教に一時入信し、後に『神道天行居』を創始した友清歓真の『霊学筌蹄(れいがくせんてい)』を参考にして書かれた、といわれています。歓真は、
「岩笛も本来は、”鎮魂玉と同じく神界から奇跡的に授かる”
ものではあるけれど、仮に相当のものを尋ね出して用いてもよろしい。
普通は拳大、鶏卵大の自然石で、自然に穴の開いたものを用いる。」
と同書の中で述べています。
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