神道宗教 第101号(昭和55年12月発行) 抜粋
序
わが文化の最も古き源泉、その少くとも一つとして、出雲における二大社が留意されるべきである。すなわち、杵築大社、いまの出雲大社と、熊野大社とである。
『出雲国風土記』によるも、『延喜式』によるも、「大社」とされるのは、出雲の国においては、この二つの神社である。現在も、島根県下、「大社」の称号が神社本庁から承認されてあるのは、この両社のみである。
ことに、明治維新後は、出雲大社の方が、社格も一層高くなり(1)、また、全国的に崇敬が著しく拡げられたが、王朝時代には、神階授与等のとき、熊野大社の方が、揃べられると先に掲げられ、かつ、勲等も一段上であったことが、六国史に見られる(2)。また、民問においても、出雲の「一の宮」と云へば、近来は、出雲大社を挙げる著書が多いが、江戸時代の『一宮巡詣記(3)』までは、熊野大社とされていた。
この由緒のきわめて古く且つ深い神社は、元来、どのような形態であったであろうか。とくに、上代においては、「社殿が無かったのではないかと考へられる(4)」。また、そのときの祭祀は、いかにあったのであろうか。
註
(1)
出雲大社は、官幣大社に、はやく明治四年から、熊野大社は、国幣大社に、おそく大正五年に、列せられた。また、戦後は、神社本庁により、 いずれも「別表神社」とされたが、大社の称号は、前者は当初より、後者は昭和五十一年より、認められた。
(2)
例えば、貞観九年(八六七年)四月八日「出雲国、従二位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築神、並びに正二位を授く」(原漢文)『日本三代実録』巻十四。
なお、つづいて、出雲国の「佐?(太)神正五位上、……能義神従五位上を授く。」等とあるのに比して、両大社は抜んでて高位とされた。
(3)
橘三喜(一六四五―一七〇三)著『一宮巡詣記』(写本)、国学院大学図書館蔵、一二―一四丁。
(4)
神社本庁教学研究室編『古代の神道観』昭和五〇年、神社本庁、五一頁。
一
熊野大社の本殿は、現在、意宇川の上流域、松江平野が南に狭(せば)まる所にあり(5)、相当に壮大にして且つ端整な大社造の新建築をもって、東面して鎮坐されてある。しかし、その背後の青山は、八雲山系の蛇山であり、『出雲国風土記』が指示する地点ではない。また、たしかに、当社の記録および口伝によれば、「建久(一二世紀)の頃、今の地に移奉」(引用の括孤内は筆者注、以下、同じ(6)とある。
この古風土記(七三二年)によれぱ、「熊野山」の注記として、「いわゆる熊野大神の社が坐す」(原漠文)とある。この古文書においては、出雲の国の各郡にわたり、列挙される山の名は、計、五十六、そこに「神の社あり」(「神あり」等を含む。)との注記があるもの、計、十、そのうち、山の上または峰にありとされるもの五社、また、山の下にありとされるもの二社、したがって、その他の三社は、この熊野大社を含めて、山の上でも下でもなく、その山腹にあったと、解釈されうる。
この「態野山」は、現在の天狗山(六一〇・四米)であることは、すでに異論がない(7)。この地方一帯(八束郡を含む旧「意宇郡」およびその以北)の最高峰である。また、現熊野大社が保存する文書にも、「此(この)山に神宮のありしより天宮(てんぐう)と呼称(とな)へしを、後世に誤りて天狗(てんぐ)山といふ」とあり、つづいて、この「山腹に、平面地、凡(およそ)数十町歩あり、俗に、天宮の平地と呼ぶ、是(これ)宮跡なり(6)」とある。もっとも、この旧宮跡についての解説も、また、中世以前の古文献も、当社が天文十年(一五四一年)に戦災をうけしためか、何ら見いだし得なかった。よって、調査のためには、天狗山に登る必要があった。そこに古い築石を見たという土地の有力者の好意ある案内をうけることができた。
現社殿の一の鳥居から南方へ一粁、清列な意宇川をさらに溯る。広かった平野が、峻厳な山ひだ(襞)に細まってゆく、この地形は、紀州の熊野本宮大社への道とよく近似している。ここは、天狗山の南麓で、字(あざ)宮内(みやうち)という、約五十軒の人家も疎(まば)らな部落がある。そこは、熊野大社の「旧社地」とされる。けだし、平安朝期には荘厳な社殿が仰がれ得たであろう。しかも、それ以前の、古代の社地を求めて、さらに、その川上へと狭き山道をたどる。
「意字川の源、熊野山より出づ」と、その古風土記は誌(しる)す。登ること二粁余りで、「意字源」の標札にいたる。そこの冷き清水を掬(く)み、昼なお小暗き林間の急坂をつき進む。やがて、天狗山束側の尾根に出る。それからは峰づたひに山上へいたる。その問、一料余り、現社地および宮内へと降る北側の山腹に、何か遺跡ありやと注目しつづける。しかし、草木が下から上まで繁茂していて、見下す視界が著しく妨げられる。案内の人々も、惑われた。頂上がきわめて近くなったとき、足許の林問から、一瞬、眼に止まったのが、白木(桧)の丸い宮柱(地上に約二米余り)である。それの標識であると直感して、ただちに、それに向けて、約十米ほど滑り下った。そこに、そそり立つ磐座(いはくら)があったのである。
たちまち森厳な雰囲気につつまれながら、対面される黒い岩壁は、身長の二倍半ほどの高さで、束西の櫛棚八米ほどにわたり、計、五つの巨石が並んで重ねられてある。余りに大きすぎるため、祈念をこめた写真も、その一面の一部しか撮り得なかった。それは、北方へ急傾斜の坂をなすが、その前面の中央部の下には、畳一枚余りの平地が残されている。わずか一、二名が祭祀のため立ち振舞ひ得る余裕しかない。
また、その前面の東端から一米ほど距ててその東北に緩く下がって、それより小型の磐座がある。高さ身丈一倍半前後の巨石三つと数個の補間石から成る。この相接する黒巌群は、主従または雌雄の対応をなすもののごとくである。いずれも、その周囲に、〆縄が張りめぐらされてある(8)。
さらに、その東北の緩い傾斜を二〇米ほど降りてゆくと、積もる枯葉の間から、巨石が五つほど頭を高く出している。同質の身長大前後の巌で、主たる磐座に比べては小型のそれである。また、熊野大社からの〆縄が、それに張られてある(9)。
これら三つのグループの巨石は、いずれも古色蒼然たるはもとより、苔の蒸し方、ひびの割れ方などから、数えがたき年数を経たもの、けだし、有史以前のものと、直観される。ながく、土地の人々から護持されてきたところ、その下の発掘などは計画すらない。しかし、この山から流れる意宇川の諸流域には、弥生および綱文時代の土器だけではなく、石器時代の遺物も、豊富に発見されつつある。四十万年前と鑑定された石器類も、八雲村役場の出土品室で親しく手に執って眺めることができた。
この磐座群は、天狗山の頂近く、その北側の九合目、海抜五五〇米辺りに位置する。その最大の主磐座から真北へ、立木やその枝蔓につかまりながら、急坂を降りること四十米ほどで、その傾斜がゆるむ。そこに、多数の黒い若石群が、厚く積もった枯葉の問に頭を出している。それほど目立つ巨大なものは見かけないが、束西の幅三十米ほどにわたり、けだし太古から敷きつめられたままで、また、厳粛な気分をそそり立たせる。そのうち、その北側の中央に、高さは低い(O・五米)が、表面平たく経二米ほどある盤石が目立つ。ただし、その鏡面がやや北に傾いているのは、けだし、地震の所作であろうか。その下(北)側の東西の線上の細い平面には、数十人が立ち並ぶことができる。そこから、南を見上げれば、冬および春先などの落葉時には、目前に大きく、磐座前面の威容が、樹間から迫ってくる。ただし、夏期など枝葉が茂れば、現在は視界が全く遮られる。古代は、その間の林は、無かったのであろう。すべて、年ふりた大木は一本もない。
さらに、それから急坂を北下すること二十米ほどで、また傾斜がとまり、幅(南北)五米、長さ(東西)五十米余りの平地となる。ここは、草木のみが茂って、岩石がない。ただ、中央に一個だけ、表面平たく滑らか菱形の縦(南北)○・八五米、横(東西)一・五米、高さO・四米はどの盤石がある。人独りが楽に坐りこみうる。それを囲んで、百人位は、この草原に蹲りうる。樹木は、すべて小さく、太古はここにも無かったであろう。そこから南面すれば、近くの岩石群の上に、大磐座がまた厳然と鎮坐まします。ただし、現在の夏期などは、茂る枝葉に妨げられる。この盤台も、苔むし皹(ひび)われ等の状態から、また、太古からのものとみられる。古風土記の当時(八世紀初)には、この草原が祭場であれば、すでに、雨露を凌ぐ建築物が、また、神饌を供える机なども、棚素な木造であれ、設けられ得たであろう。また祭器類も、近くに数多く埋められてあるであろう。しかし、朽ちた落葉がふかく堆積していて、安易な探索は許されなかった。
この草地の南側は、また、北へ急傾斜する。よって、東の尾根にでて、もとの山道を西北に降ること百数十米で、また傾斜がゆるみ、そこにも、岩石群がある。上のそれと同質であるが、数も形もやや小さい。また、経一・五米ほどの表面平たくて低い盤石もある。現在の山道が横切り、登るときも気付かれる所である。その周囲は密林であるが、ここからも、山頂および大磐座が、落葉期は樹問から見上げられるのである。そこは、古代祭祀の跡であったか否か、少くとも、聖域への入口として、当時(七三二年)は、すでに広義の鳥居が立てられていたと想像されうる。
なお、そこから下ること五十米ほどで、その岩場の北下に、「意宇源」がある。流水がそこから北北西へと、さくなだりに落ちたぎっている。その麓に宮内の部落がある。そこの渓流域からも、また、天狗山頂を大きく見上げることができる。
上記の磐座および岩石群の存在を、鳥瞰図として素描すれば、「図1」(10)のようになろう。とくに、樹木などは省略されてあるが、かえって、『出雲国風土記』の熊野山に坐す「能野大神の社」の基本的なあり方を、示唆するものであろう。
註
(5)
熊野大社、島根県八束郡八雲村熊野。
(6)
国学院大学図書館編『熊野神社文庫』昭和三八年、非売品、二六「熊野神社由緒」一冊(写本、写真版)
(7)
例えぼ、
1. 田中卓著『出雲国風土記の研究』昭和二八年、出雲大社御遷宮奉賛会、六二九頁。
2. 加藤義成著『出雲国風土記参究』昭和三二年、至文堂、一五五頁。
3. 水野 祐著『出雲風土記論攷』昭和四○年、早稲田大学古代史研究会、六四一頁。
4.鳥越憲三郎著『出雲神話の成立』昭和四一年創元社、二〇頁。
(8)
ここでは、祭神を論ずることを差控えるが、麓の古老たちの言伝えによれば、大磐座(いはくら)の主座は、アマテラス大御神、その脇座(東北)は、スサノヲの命である、と。
(9)
また、同じく離れた別座(東北二〇米)は、オホクニヌシの神である、との指摘もある。
(10)
この上下の岩石群の問(海抜五〇〇-四〇〇米)の幅広い密林の下に、小石を敷いた小円陣が数多く散在する、との報告がある。けだし、中世、修験者たちの護摩を焚いた場所であろう。
なお、過去において、天狗山の西峰の平地に、真言宗の寺院があり、かつ、その東峰の平地(頂上より五〇〇米)に神社の社殿があった、との言伝えもある。その宮跡は、しかし、この見晴しのよい草原に見付からなかった。また、ここからは、磐座が見えない。それが、一時、信仰の熱情から実現し得たとしても、平安朝以後のこととされよう。
二
現実の社会における神社の形態の変遷は、その祭祀の内容および性格の推移に呼応ないし関連するものとみられる。
熊野大社の現本殿へは、出雲国造火継神事を含めて、その広い地域の住民たちの参詣が多い。松江市から南十粁、平垣な幅広い道路で、容易に到達できる。そこには、民衆の個人的な祈願の奏上が、数多く見うけられる。すなわち、人から神への話しかけである。
平安朝時代、旧社殿があったとされる場所(字、宮内)は、さらに山際の狭まって、一粁先の奥地である(11)。その地方の役人や農夫たちの参拝には、それだけ往復の時問がかかったが、平垣な道路の延長であるところ、まだ比校的楽であり得たであろう。そこでの祭祀も、人本位に神への祈念の伝達が多かったであろう。もっとも、個人的と云うよりも、村落的ないし集団的な請願の奏上が、『延喜式』などによると、重んぜられたとされよう。
しかし、元来、のりと(祝詞)とは、神の言葉が宣(の)られることであろう。「ノリトとは、神授の神言を御言持たる神主が人々に宣り下すことであった(12)」。それが、社会生活における重大な意思決定にただちに閑与することは、古代の諸史実が顕著に示唆するところである。日本書紀、続日本紀などの『六国史』によっても、神功皇后の官廷帰神(二〇〇年)から和気清磨呂の宇佐神託(七六八年)までの間も、神々からの生の言葉である「神教」「神語」等を遵守する記事が、少からず見いだされる。すなわち、この古風土記の作成された時代(八世紀初)は、まだ、抑から人へ呼びかけを主とする祭祀であり得たであろう。
したがって、天狗山の磐座直下の斎場は、まだ発堀が全く行われてないが、八世紀以前から、「いわゆる熊野の大神」の神託ないし神意を直接に受けまつる所であったと、想定される。それは政治ないし生活の指針として絶対的価値をもつべく、よって、遠く峻わしい山道をいとわず、馳せ参じたのであろう。そのためには、磐座の存在はもとより、その神のみいつに主(つかさど)られる者、すなわち、元来の意味での神主(かむぬし)があったであろう。けだし当時(八世紀)としては、斎戒を経た巫子(みこ)が、その盤台に坐ったのであろう。
このあからさまな神教をいただく祭祀にしても、神本位か人本位かの段階がありうる。前者は、神の垂示のままに実行し、その結果をまた垂示のとおりに報告する。通常は、神授の神言を秦上する、「称辞(たたへごと)竟(を)へまつる」で済まされうる。しかし、異常のときは、それぞれ、特殊の垂示を賜わるであろう。それは、氏の上またはその集団の代表者だけの参列で事足りるであろう。これに対し、後者は、現実に判断しがたい社会生活の重大問題について、その都度、それぞれ、透徹した回答をいただくべく、請願する。その託宣に実効がある限り、その地域社会の有力者たちは競って参集したがる。この天狗山の聖域に、大小二つの斎場が上下にみられるが、それの理由には、このような事情も考慮され得よう。
さらに、この神主を媒とする以前の太古の祭祀が推察されうる。すなわち、氏の上ないしその地城社会の最高指導者自らが、磐座に直面しての「神人合一」的行事である。もとより、岩石そのものは神ではなく、ひもろぎ(神籬)にすぎない。その作法も、その祖神の垂示に従うものであろう。そこに、神意を(文字通り)体しうるところ、榊ながらなる意志決定による政治ともなろう。「崇神紀」における斎鏡の分離奉賽の前の「同床共殿」の段階に相応する。この「有史以前」の時代は、案外にきわめて長かったのではあるまいか。その問に、無知蒙昧だった青人草(民衆)が、逐次に指導啓発されていったのではあるまいか。
このように、熊野大社の祭祀は、山の上近くの磐座から下へ、次第に麓、さらに、川を隔てて閉けた平野の入口の荘麗な社殿へと推移していった。それは、それぞれの時代の要請として肯定されうる。この傾向は、他にも、由緒ある神社に多く見いだされる。よって、「奥宮」から「里宮」へ、本社が替っていったとしても、その祭神の垂示のままに、その霊代が清浄かつ厳密に安置されてあれば、その権威は変わらないであろう。しかし、その祭祀そのものの「本に報い始に反える」ことも、忘却されるべきではない。尋ねたところ、現在の態野大社としては、熊野山いまの天狗山の磐座への祭祀を、年に一度とり行う。もとは、宮司が定時に幣帛具進したとされるが、今は脚力の衰えない若き禰宜又は権禰宜が、毎年九月の晴れた日に登山し、頂上近くの各磐座の〆縄を全都更新して奉斎する由である。
また、その現大社本殿は従来から束面し、大社造りゆえ、その内陣は南向きであり、けだし、その霊代として安置される聖なるもの(岩石)が、かの山上の磐座と呼応されているものと、了解され得よう。
なお、当社は、去る明治四十一年までは、現本殿は「下つ社」で、中世は伊勢宮とも称せられ、それに対し、その西南半粁の意宇川上流に臨み「上つ社」があった。熊野三社権現とも云われ、その旧三社殿の背後の岩壁(比婆山)の上に、遥拝所(空の社)があった。正面(南々東)に、天狗山がやや遠くきつ立する。今も、この山への「遥拝所」の標札が立つ。しかし、ここからは、その黒い磐座も川肌と区別して識別しがたい。また、それが可能であっても、その正面(北)からではなく、斜め(西北)からの礼拝となろう。もっとも、この「上つ社」の場所は、大国主神(オホナムチの命)の生誕地であるとの尊崇が、土地の古老たちに残存されてあり、その宮跡はそのまま保存されてある。
神社の起源として、わが古典によれば、「天つ神籬(ひもろぎ)・天磐境(いはさか)」とされる。この広義の「天つひもろぎ」を形成させる物資は、多種多称でありうる。しかし、この熊野大社に限らず、出雲系ないし国つ神系の山緒ある神社の原像としては、自然石に基く磐座(いはくら)であることが、はなはだ多い。もっとも、その形態は、それぞれ伝統的にすこぶる異る。
例えば、その隣、西北四粁に聳える八雲山(四二四米)は、『出雲国風土記』の須賀山であるが、それの西南側中腹に、三個の巨石から構成される磐座がある。「図2」のごとく、鼎立していて、その白っぽい奥岩は、身長の三倍はあり、前の雌雄対応の黒い両立岩も、人のよく運び得ない大重量である。いずれも、きわめて年ふりて、その蒸す苔が、八雲立つ紋様を描いているとして、近辺に知られている。いずれも、〆縄が張られ、その問に小さな石祠も置かれている。その前面、すなわち、西南方に下がって一・半粁の地点に、須我神社(旧県社)の現本殿があり、ここは、それの「元つ宮」として認識されており、毎年定期に、同社の宮司以外氏子総代により正規の祭典がここで執行される。
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また、天狗山磐座の真北をさらに九粁余り延ばした級上の地点に、山雲の古代文化の栄えた大庭(おほば)の宮山があり、神魂神社の境内地であるが、そこに、奥・中・辺の三段にわたる磐座がある。その形態は、大和の大神神社のものに類似しているが、その中央のそれを描くと、「図3」のようになる。すなわち、主たる巨石(高さ身長大)を中心に、一そう小型の同質岩が百余り密集されて、周囲一九〇米の楕図形をなす。海抜一〇〇米余り、北へ下り、その北端に表面平らな盤石がある。古来、「守護不入」(禁足)の地とされた密林のうちから、最近、発見され、その主厳の周辺に〆縄が張りめぐらされた。その存在意義が大きいので、次の機会に論究したい。
このような磐座は、それぞれ、特定の白然石が用いられてあるが、その構成および配置には、高度の思慮分別に基くものがあるようである。そのうち、最も白然な形と見られる熊野大社の「元宮」においても、その巌の重ね工合に、ふかき意図的なものが、観察されうる。しからば、このような巨大な鉱物が、どうして山の上までも動かされ得たのか。近代科学の技術では、解決できないものが、多分に残存する。これに対し、科学の限界が弁えられるべきである。それの進化論は、たしかに一面の真理を伝えるが、それと共に、太古から退化した能力が、またそれだけ、甚だしくもあることに気付かれるべきである。事実は事実として、古代のエリートたちの叡知が、改めて認識される必要があろう。
ことに、記・紀の示す時代においては、生々化育の実相として、産霊(むすび)がまともに認識された。とくに、地上万物のうちでも、岩(いは)は、その言霊の示すごとく、「地」の気の強靱な奔(ほとばし)りがあり、それが「天」の気と感応し得て、深く且つ艮く、これを保持しうる。それゆえ、神籬(ひもろぎ)としての磐座には、いまもなお、それの稜威の発散が感受されうる。よって、その前面において、磁針も乱れることが、少なくない。従来、神社において、多く「禁足の地」とされてきた。もとより、聖たるものに觸れるには、それだけ厳粛な配慮を要する。しかも、今や、近代文化の行詰りから、「根源へ」の開顕が急がれる時代がきた。この方面の学術研究は、一部を除いて(13)、未だ開拓されない領域が余りに大きい。
(11)
熊野大社の旧社殿が、宮内(みやうち)のどこにあったか。その部落の人々に尋ねたが、まだその地点の確認が得られなかった。
なお、某書によれぼ、そこ(宮内)からさらに南一粁の市場(いちば)にあったとされる。しかし、この平地の街で尋ねた眼りにおいては、否定的である。ただし、この部落からの直接の登山口に、天狗山への逢拝所があったとする地点は、明確に指摘された。
(12)
神社本庁教学研究室編、前掲書、六三頁。
(13)
1. 荒深道斎著『天孫古跡探査要訣』(昭和一四年、道ひらき本部)、等。
2. 大場磐雄著『神道考古学論攷』(昭和一八年、葦芽書房)、等。
(以上は、昭和五十四年十二月二日、神道宗教学会においての報告「出雲における二大社の原像」の前半の内容をその後の再調査により若干補充したものである。) |