神道宗教 第101号(昭和55年12月発行) 抜粋
一
わが国においては、ふかく伝統に根ざす神社が、今もなお、どの村落にも見うけられる。そのうち、その津々浦々にまで、全国的に崇敬されるものとしては、伊勢の神宮についで、出雲大社が挙げられるであろう。とくに、「大社」と云えば、戦前までは、この「杵築(きづき)大社」(『延喜式』)のこととされた。ことに、従来、その社殿の豪壮さは、群を抜いていた。
現在の出雲大社本殿の高さは、八丈(二四メートル余)とされる。礎石より千木の先端までの長さは、まさにそれ(八丈)だけあると見られる。延享元年(一七四四)の建築であるが、寛文七年(一六七七)以来の「正殿式」とされる。しかも、それ以前には、その倍の十六丈もあった、と語られる。元禄元年(九七〇)の『口遊(くちずさみ)』(源為憲著)等から、その事実は肯定されうるであろう。さらに、それ以前は、そのまた倍の三十二丈もあった、と社伝はいう。それの立証は、目下のところ不能であろうが、元来、祭神(大国主神)の「国譲り」に対する「天孫」の応答として、「柱は則(すなわ)ち高く太く、板は即ち広く厚く」(『日本書紀』)等、当時の宮殿に準じた建築が心掛けられたことであろう。
よって、「『古事記』や『日本書紀』の編纂された八世紀初頭のわが古典時代には、(出雲大社の)豪壮な社殿は人々の頭に強く印象づけられていたということは、動かすことのできない事実である(1)」との主張も妥当であろう。しかしながら、それ以前、すなわち、まだ木造建築が設けられなかったときの神社の現実態は、何であったであろうか。大和言葉の「やしろ(神社)」は、「どうもこれは社殿を意味しているのではないらしい。というのは、ヤシロの語義は、神を祭る場所を示すものとされるからである」。すなわち、太古は「社殿が無かったのではないかと考へられる(2)」のである。もとより、そこには、神霊の貫通する「ひもろぎ(神籬)」(『日木書紀』等)が無くてはならない。したがって、後世の神社の本殿には、「みたましろ(霊代)」が奉持され厳守される。しかも、多くの国つ神系の神社においては、その本殿または「里宮」に対し、元(もと)つ社(やしろ)または「奥宮」において、その「神体(霊代)」が磐座(いはくら)であることが、少くないのである。
大社の本殿の背後に、八雲山(蛇山、不老山、宇迦山)が聳えている。風致上からも不可欠であり、「禁足地」として、厳重に保存されてある。その山腹には、巨石群もある様子である。しかし、その聖域に、大社そのものの元つ社としての祭祀が行われた事跡が、認められない。また、文献の上からも、それほどの重要性が、むしろ否定的ですらある。例えば、大社の祭主となる出雲国造家が、南北朝期から、北嶋と千家とに分裂して、宝暦十年(一七六〇)、八雲山の領有について相争ったとき、北嶋から千家あての「証文案」に曰く、「八雲山は、…末社、素義鳴(すさのお)の古跡にして、重んずべきこともこれ無く」、松平藩主の裁許により、「北嶋え御附け下さるべき旨」であるが、「八雲山をもって、本家の証拠に相成らざる儀は、ご裁許状にもこれ有るとおり(3)」とある。すなわち、現在の摂社、素鵝(そが)社(祭神、スサノヲの命(みこと))の元つ社とみたのであろう。それは、八雲山の南麓、本殿のすぐ裏に鎮座される。もっとも、大社所蔵の鎌倉時代の古絵図によれば、消滅されてあったが、近世、それが復活された。大社志によれば、「素鵝宮は、大社と蛇山との間にある。延喜式・風土記の記す所の出雲社とはこれにて、スサノヲの命(みこと)、イナダ姫(ひめ)、オホナムチの命(みこと)の三神を合祭する」(原漢文、元文二年、一七三七、寛延元年写本、国学院大学蔵、一四丁)とある。
もっとも、千家前宮司の著述によれば、この八雲山は、素鵝社よりも奥にある三歳(みとせ)社との「本末閑係」が指摘される。曰く、「八雲山から…流れる…素鵞川をさかのぼって数丁、深山幽谷にあそぶ思いがするうちに、右手に『三歳社』が見えてくる。延喜式内社で、祭神は事代主神を主宰神に、高比売命と御年神を合祀する。大社本殿背後に禁足地となっている八雲山が、かつて宗教的に信仰の対象となっていたときの、その八雲山の神と本来関係を密接にもつものが、この境外摂社としての三歳社ではないだろうか(4)」と。いずれにせよ、大社そのもの(本殿)の元つひもろぎ(社)が、その裏山にあったとは、見なし得ないのである。
現大社の鎮座地は、島根半島(もとは完島)の西端、稲(いな)佐(さ)五十田狭(いたさ)、または多芸志(たぎし)の浜に近く(もとは海辺)、出雲の御崎(みさき)山(弥山(みせん)、四九五メートル)に連なる八雲山の麓にあり、「国作らししオホナムチ(大己貴、大穴持)の命の国譲り」のゆかりの意義ぶかき所であることは、肯定されうるであろう。本殿の心御柱の地点は、前回の建替えで、わずか北方に移ったとは云え、従来の境内地にとどまる。しかし、背後の山をはじめ、その周辺を視察し廻っても、その本殿の元つひもろぎたるべき磐座(いはくら)ないし樹木に相当しうるものが、ついに見当らないのである。もとより、束に聳える弥山その他の聖地などには、それぞれ特定の神社が独自に厳存する。
この広大な神徳が仰がれる大社の祭祀は、「天下無雙の大厦」とされる大構築の他にも、一般の神社のそれとは著しく相違する。まず、その宮司は、出雲国造家が継承し、今にいたるまで変わることがない。明治四年に官幣大社とされ、政府の行政下におかれたが、その宮司更迭(てつ)の試みはたちまち挫折し、現在は「火継ぎ」八十三代目となっている。それも、単に神社を管理する又は祭神に奉仕する神職にはとどまらず、神の「御垂跡(ごすいじゃく)」または「御杖代(みつえしろ)」とされ、さらに、その大祭には、「国造はあたかも御内殿を背にして神饌に向っている(5)」等の伝統があり、また、宮中祭祀に類似する一生一度の「火継式」と毎年の「新嘗会」は、遠く離れた神魂神社で執行されてきた。これらのことは、大社における国造の地位が、文字通りの祭主、祭祀の主体であり、これに対し、ご祭神は、その客体であられることを示唆する。したがって、氏子の氏神に対する、又は、産子の産土(うぶすな)神に対する「従っての奉仕」よりも、主人の賓客に対する、「懇ろな接待」が、その起原にあるべく、この場合は、ご神徳がそれにより却(かえ)って顕揚されるべき神定めの「うけひ(誓約)」と仰がれるものではあるまいか。
元来、出雲国造は、天つ神系の天(アメ)の「ホヒ(穂日)の命(みこと)の後」(『延喜式』)とされ、国つ神系のオホナムチの命は、その「国譲り」に際して、「汝の祭祀を主(つかさど)らむ者は、アメノホヒの命(みこと)これなり」(『日木書紀』)との天つ神(高皇産霊)の指示を受納された、と伝えられる。すなわち、この国つ大神の大社は、ただちに天つ神系の祭祀をもって成立したものとされる。それゆえ、当初から、そのやしろ(社)は、「底つ石根に宮柱太しり、高天原に氷(ひ)木たかしり」(『古事記』)であったのであり、また、「天の下つくらしし大神の宮つかへまつらむとして、諸々の皇神たち、宮処に参集せて、杵築(きづき)たまふ」(『出雲国風土記』)とされる。そのうちでも、その核をなすひもろぎとしての霊代(みたましろ)は、きわめて重く大きいものとされ、大社の内陣ふかく鎮坐される。また、その本殿は南面しているのに、その内陣は西を向き東を背にしている、等々。それらのあり方も、祭主となったアノノホヒの命またはその後裔(えい)がもたらしたものであると、見なされうるのである。
かの公選の『令義解』(天長十年、八三三)に曰く、「天神(あまっかみ)とは、…出雲国造が斎(いつ)く神・等の類これぞ。地祗(くにつかみ)とは、……出雲の大汝(オホナムチ)神、等の類これぞ」(原漢文、神祗令第六)と。ここに、山雲国造の伝統の祭祀の由来ないし根拠が問われる。もとより、「高天原に事始めて」であり、かつ、「天つ宮事もちて」であるべきであるが、地上における発祥の現実態が、学術の領域として求められるであろう。
二
大社の祭祀をつかさどる出雲国造は、その名称が示すように、出雲の国全般の政治をも、大和朝延から委任されていた。けだし、大化改新を経ての律令制度のとき(六八一)には指令されていたのであろう。それ以前は、独立せるその地方の支配者、豪族ないし君主であり得たと、推察される。周知のように、その行政権は、やがて解任される。慶雲三年(七〇六)、大宝律令に基く国司の派遣で、出雲国造は、意宇郡だけの長官(大領)とされ、さらに、平安朝が成立し地方行政が躍進する延暦十七年(七九八)、それからも免除された。しかも、国造の名称使用がその後も公認されてきたのは、出雲国全般にわたる祭祀の権威を保持していたからであろう。すなわち、この杵築大社をはじめこの国の各村落にわたる神社は、ながくその指導および監督下にあった。江戸時代でも、「出雲国造は、(出雲)国内の、天神地祗を兼ぬる神職なり。雲州諸社の祠官は、国造祭事の代官なり(6)」との言明(寛文七年、一六六八)が見られた。この総祭祀権が明らかに崩解を始めたのは、けだし、元禄十年(一六九七)、佐太神社(島根県佐田村)との紛争に対する「江戸幕府裁許状」(判決文)発布(7)による、その支配権喪失からであろう。
よって、ことに王朝時代華かなりしころは、出雲の神々の稜威(みいつ)に基く祝福は、朝廷にとって重大な意義をもつ儀式として迎えられた。出雲国造の活躍が、六国史にしばしば記載されるのは、この「神賀事(辞)を奏する」ことの実施であった。霊亀二年(七一六)、「この日、百官斎す」(『続日本紀』)とあり、また、『延喜式』(延長五年、九二七)にも、「その日、諸司(百官)廃務(執務せず)せよ」と規定してある。この祝祭日の儀式には、天皇出御も仰がれ得た。その慶祝は、出雲国造が替わるごとに参向し、また一年後、さらに参向する。そこに、「出雲困内の総斎」を済ませるのであり、それがゆえの「神賀」または「神寿」となるのである。この出雲の神々への祭祀は、どこで、どのように行われたのであろうか。
まず、そのときに奏上される祝詞文が、『延喜式』に残されてあるので、その祭神および祭場の指摘をとりあげる。すなわち、「出雲国造神賀詞」に日く、
「出雲の国の……熊野大神クシミケヌ(櫛御気野)の命、国作りまししオホナモチ(大穴持)の命、二柱の神をはじめて、百八十六社にます皇神たちを、某甲……志都宙(しづみや)に忌(い)み静め仕へ奉りて、……伊波比(いはひ)の返事の神賀吉詞(かむほぎのよごと)、奏(まを)し賜はくと秦す」(原漢字)
と。
ここに、祭神は、(1)クシミヶヌの命と(2)オホナモチの命と(3)その他の出雲の神々であり、また「某甲」とは、出雲国造自らのことであるが、それを「斎(い)み鎮(しづ)め仕へまつる」ところの「志都宮」とは、どこの何であろうか。本居宣長は、かの『出雲国造神寿後釈』(寛政五年、一七九三)にて、「さて、此(この)宮は、出雲一国の神々を請(ませ)奉る宮なり。されば、此宮は、常の宮にはあらず、此(この)斎(いはひ)のために、新に造るなるべし」と解釈する。しからば、その新造される場所は、いずくにあるのか。'日本の神々が、単なる観念の所産ではないとするならば、それは自由勝手に選ばれる地点ではなく、神ながらなる特定の箇所であるべきである。翁たちは、沈然をまもる。
元来、出雲国造家は、大社鎮座の杵築(大社町)に移住する前に、そこから東方四〇粁余、意字郡(今の八束郡と松江市)の大庭(おおば)(松江市大庭町)に住宅を構えていた。いまも、両国造邸跡が史跡として保存されてある。国造家の「伝に云う、始祖アメノホヒの命、大庭に開斎した(7)」と。それは、きわめて古くからの根拠地とみられてきた。「出雲国造の本貫の地は意宇郡である(8)」との断定も下される。
この現松江市南郊の国造邸跡の南側は、すべて上り坂であり、大庭(おほぼ)の「宮山(みややま)」とよぶ。その上り口に、正林寺があり、そこに、苔むした石塔が十数基ほぼ二列に並んでいる。古くて崩れかけているが、厳重に保存されてある。その石囲いの入口に、「出雲国造家五輪塔群」の立札がある。多くは、鎌倉時代の型のように見うけられた。それから東方約三〇メートル、やや上位(南方)の大樹の森のなかに、神魂(かもす)神社が鎮座する。その間に、すでに多数の古墳が並んで発見されてある。この辺一帯は、もと国造家所有地と見なされるので、胴造家関係者の古代墓地であろう。
この宮山の神魂神社は、旧「県社」であり、中世、「大庭大宮」とも称された。しかし、『出雲国風土記』『延喜式』等の古典には、その存在が記載されていない。したがって、その当時は無かったものと、宜長翁たちは判断されたのであろうか。出雲国造が杵築転居の直前までは、みずからの邸内社があってもよい。「木来が、この(神魂)社は、国造の館の、いわぼ邸内社としてはじめられたものであり(9)」との主張もある。それがいかに荘厳なものであっても、公開されない以上は、発表される神社名簿には、掲載されなかった筈である。すべて、諾国の国造または国司が、その所管国内の神々をまつる邸(館)内の総斎社は、『延喜式』等の古典には、記載されていない。しかし、中世以降、それが「開かれた神社」となり得たときは、正規の社格も与えられる。例えば、現在、出雲国府跡に残存する国司建立の「出雲総社」は、いまの「旧県社、六所神社」(松江市大草町)である。この古社も、「出雲意宇六社」の一つであるが、神魂神社と共に「式内社」ではない。
国造の大社地への移住はいつごろであろうか。早くとも、意宇郡大領の解任(七九八)までは考えられず、さらに、『令義解』に上述の記事があるので、その編成時(八三三)までは、疑問視されよう。いずれにせよ、「中古以来」と伝えられ、「国造杵築へ渡られし後は、秋上一人が神主とたり(10)」等の文言が、神魂神社に残されてある。それは、この「神魂社」の日常の祭祀を、「代官職」である秋山家にゆだねたことに相当する。しかし、「火継式」「新嘗会」および遷座式等の重大神事の執行は、大社から「十一里」(四三キロメートル)の道を二日がかりで戻っていた。またその社務の管理も、建築等については、計画から落成まで、国造の指揮によった記録の数々が見られる。特に、つぎの事実に気付かれる。現在の神魂神社の本殿は、正平六年(一三四六)の建立と見なされるが、その構造が出雲大社の本殿と同型で、縦横幅の長さがすべて二分の一ずつとなっていることである。ただし、床の高さだけが、大社が二倍に満たないのは、安定のために低めざるを得なかったと見られる。それゆえ、同じく国宝の天地根元造でも、この宮山の方が一そう美しい均斉をもつ。すなわち、こちらを模型とすることで、あの巨大な大社本殿も実現されてきたと、容易に推定されうる。
この神魂社は、外部からの奉賽をうけ、国造の許可を得た記録も残る。逐次に、「大庭大宮」として、戦国の武将たちの参詣も見られ、天正十一年(一五八三)には、流鏑馬(やぶさめ)行事が公開された(11)。しかし、この神社が、国造の支配から完全に独立したのは、明治維新を経た官国幣社制度樹立以降とみられる。
神魂神社の祭神名は、中世以降、イザナミ(伊弉冉)大神、配神、イザナギ(伊弉諾)大神と掲げられている。これには出雲の神々もすべて抱擁されうる。それに対し、同社に残された古き祝詞文が三種みられる。そのうち、永禄十三年(一五七〇)のは、たしかに、「イザナギ・イザナミ大明神の広前」への奏上となっているが、次の延宝二年(一六七四)に書かれたものは、下記の神々、計、八つの「広前にて」の奏上となっている。(1)イザナミの大明神、(2)イザナギの大明神〔の日のまなこ〕、(3)熊野の大神、(4)杵築の大神、(5)佐草(八重垣神社)の大神、(6)さた(佐太神社)の大神、(7)ゆや(揖夜神社)の大神、ならびに、(8)五百十八所の大小の神、と。また、同じ筆蹟で書かれた第三の祝詞案は日付がないが、この第二のものとほぼ同じ時であるべく、また、その内容も大休に同じ。ただし、(1)と(2)の順序が逆になり、また、(3)と(4)との間に「と山の大神」が挿入され、計、九つの「広前に」おける奏上となる。この「と(外)山の大神」とは何かについては、興ぶかき課題があるが、いずれにせよ、上記の「出雲国神賀詞」と同じく、出雲の国の神々すべてへの呼掛けである。もっとも、この秋山家祝詞には、すでに、神仏混淆の臭味も強く、現世利益の祈願も濃く、また神社数も倍以上にけだし当然に増加してはいるが、国造の「出雲国内の神々の総斎」の伝統の根強い名残りが、ここまで見られうるとされる(12)。一般の神社においては、その特定の祭神を超えた、このような呼掛けは、まったく異例のことに属するであろう。
出雲国造が永住していた大庭の平野(松江市大庭町と大草町)は、きわめて古くから開発されてきたようである。その周辺には、多種多様の古墳も多く、また、弥生・縄文および石器時代の遺品も数知れず出土する。けだし、古代出雲文化の栄えた都があったのであろう。あとで中央から派遣された国司の「出雲国府」も、ここ(大草町)に設置された。しかし、その.西南側に高まる「大庭の宮山」は、古来「守護不入」、すなわち、役人すらも禁足の聖地とされ、江戸時代でも、住民の立入り伐採が咎(とが)められていた(13)。その初期、新たに城主となった堀尾吉晴の嫡子、堀尾忠氏が、あえて立入ったところ、その帰宅後、問もなく死亡した。慶長九年(一六〇七)八月四日の変事として語り継がれている(14)。したがって、その山腹は、いまもなお、草木の繁茂にまかせた白然林の境内地および公有地である。戦後、教育のためならとて、淞南学園の校舎が建立された。その東隣りの密林に遊ぶ生徒たちに事故がぞく出することから、そのうちに岩石群が整然と据っていることに気付かれた。それは、まさしく、古代祭祀の大磐座と判断されうるものであった。神魂神社本殿から歩いて約二五〇メートル上ったところで、今もその境内地のうちにある。
三
大庭の宮山の密林は、深く且つ広い。そこで最初に気付かれた古代磐座は、北にのびる山觜(はし)の麓にある神魂神社本殿の裏、南々西二〇〇メートル余、海抜一〇〇メートルほどの地点で、雑木林の下に、高く積った朽葉の地表に、おびただしい、百以上の、黒い岩の頭ないし腰までが露出されてある。その緊密に寄合った石の集団は、全体としては長楕円形をなして、南北に走る。その上端(南)部に、身長大の三角錐形の巨岩が据えられてある。これがそのグルーブの柱石とみられる。その他の岩は、これよりもみな低く、その形態は様々な自然石である。しかし、その下端(北)部に、表面が平らで、独りが自由に楽に坐わりうる盤石がある。いずれも、みな光沢をふくむ玄武岩類であるが、すでに苔むし皹(ひび)割れ色かわく等の様は、ただちに、有史以前からの成立をしのばせる。この点は、天狗山(熊野山)の磐座の巨石と大小の差はあれ、同質同状である。この周囲も、いまは、しめ縄が張り廻らされてある。一九〇メートルの長さとなる。その見取図は、すでに、本誌一〇一号に表示されてある(15)。
この磐座のある山襞(ひだ)の西側を清き小川が流れ下る。それは、神魂神社本殿の手前(南脇)を通ってゆく。そこに、面積一坪(三・三平方メートル)余りの水溜りがある。その底には、石畳が敷かれてあり、それもまた、きわめて古い構築と見うけられる。社伝では、「みそぎ場」と称している。現今は、使われていないようであるが、いまでも爽快な独り沐浴が可能である。太古、その上(南)方の磐座で祭祀を営むべく、国造またはその父祖たちは、ここで禊潔(みそぎ)の水行をはたしたのではなかったか。また、さらに、その一〇メートル北に建立されてある本殿の辺りにも、もとは、忌み寵(ごも)りの小屋ぐらいは、仮設され又は常設される必要があったのではあるまいか。けだし、平安中期、国造の杵築移転に伴い、この斎館はやがて本殿(宝殿)となる。そこに、やはり重量のある霊代が、その内陣に納められてあるが、裏(南方)の磐座から奉戴されたと、推察されやすい。この本殿の正面は、東方に向いているのであるが、その内陣の地位は、出雲大社のそれとは逆に、北向南背となっている。すなわち、磐座に奇っているのである。
この宮山における岩石群は、これだけではない。そこから真北へ、一七五メートル下った所に、高さは身長未満(一メートル余)であるが、幅の大きい饅頭(まんじう)型の巨石がある。神社の木殿からは、六〇メートルである。茂る草木の間から、その存在が気付かれたのは、また、その前面の伐採に起きた超常現象によると、伝へられる。そこにも、〆縄が張りめぐらされてある。その長さ(周囲)二五メートル、「末の磐境(いわさか)」と、その学園の教職員たちは呼んでいる。
また、その上(南)方の「本の磐境」の脇を流れる清渓にそって上ること、さらに八Oメートルほどで、それが池をなす近くの樹間に、また岩石群を見いだす。最も前(北)側にあるのは、表面が平らに削(けず)られた一平方メートルほどの角型磐石である。その背後(南)に、高く茂げる草葉の間から、十数個の岩頭が見られる。いずれも、高さは一メートル以下であるが、横幅は多くは一メートルを超えるようである。それほど密着せずに散在するが、年を経た状態および岩質などは、また、「本の磐境」のものと同じ。ただし、そこには、中心となるべき柱石が見つからなかったのである。それは、どこに持ってゆかれたのであろうか。または、きらに、奥(上方)に厳存されるのか。慎重に這(は)い上りかけたが、余りにも蜜生する樹枝に遮られた。ここもまた、特に森厳な雰囲気がこもり、その周囲にも〆縄が一八○メートルの長さで張り渡されてある。そこは、「奥の磐境」と称されている。
以上の三段の磐座のあり方を、鳥瞰図として、かつ、草木等を除いて描写すれば、下図のようになる。
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この宮山の上中下三段の磐座は、上述のように、真南の方角に向けられてある。その直線を延ばせば、広大な意宇の平野にそそりたつ最高峰、天狗山(六一〇・四米)の大磐座にゆきあたるのである。それは、紛(まぎ)れもなく、熊野大社の元(もと)つひもろぎである(16)。もっとも、足で歩いて北進しつづけうるとすれば、この宮山の丘はやがて下り、意宇川を横ぎって、熊野村にいたり、それから急傾斜を上ることになろう。その距離は、九キロメートル余りと計算されるが、光の速度ならば、一秒の一万分の二で到達する。
古来、出雲国造が斎(いつ)き祭る神として、まっ先に掲げられるものは、上掲の古祝詞に示されるように、熊野大神、クシミケヌの命である。この宮山の磐座のあり方もまさにこれに一致する。また、今にいたるまで、出雲国造にとっての最重要行事である代替りの「火継神事」と秋の「古伝新嘗祭」とは、熊野大社から火切板(火燧臼と火燧杵)をうけての神火継承でなければならないとされる。また、かの『大社誌』によれば、「国造事実」として、「神魂社は、出雲の熊野社の神とご同体なり」(原漢文、上掲書、三〇丁)とすら表明し、また、それが、国造家文書のうちにも「秘記」(寛文七年、一六六八)として見つけられる(17)。さらに、進んで、杵築大社のご祭神をまで、スサノヲの大神と称えさせたことが、中世史に見られるほどである。なお、熊野の大神は、「イザナギの日(ひ)真(ま)名子(なこ)」(「出雲国造神賀詞」)とあり、素神(スサノヲの神)と全く同じであるか否かには論議がみられるが、神のみたまは時処位に応じて分けられるべく、少くとも、不可欠の関連があることは、否認され得ないであろう。
しかし、熊野の大神だけでなく、それの愛孫(まなご)とされ、また、「国作らしし大神」とされるオホナムチの命のみたまをも、この「ひもろぎ」(磐座)に鎮めまつったであろうことは、上記の古祝詞が厳かに表明するだけではなく、また、『出雲国風土記』における神戸(かむべ)のあり方からも、.推察されうる。
この記載の正確さで著名な古風土記によれば、当時(天平五年、七三三)は、出雲国に神戸が七か所だけ公認されてあった。そのうち、五か所の神戸が、一様に、「イザナギのまなごに坐す熊野かむろの命と、五百津?(いはつすき)すきなほ取(と)り取らして所造天下(あめのしたつくらしし)オホナムチの命と、(この)二所の大神たちに依(よ)さしまつれり」(原漢文)と。すなわち、それぞれ、熊野大神へも、杵築大神へも、ともに、その産物が奉納されるのである。通常は特定の神戸は、特定の一か所の神社に所属する。それは、財の提供であるため、二か所以上であると、争奪の紛糾(きゅう)に陥りやすい。出雲の国だけが、その共有を許し得たのは、いずれも、国造による祭祀であり、かつ、その本拠地が一つであり、さらに、そこに二柱の大神がともに鎮まられるからではないであろうか。よって、これらの神戸の保持は国造家の経済的基盤に直結したのであろう。そのうち、意宇郡の「出雲神戸」は、「郡家の南西二里二十歩」とあり、その地点は、大庭の国造邸跡の北側近接地に該当する。その他の四つ、秋鹿郡、楯縫郡、出雲郡および神門郡の「神戸の里(郷)」は、いずれも、杵築大社に近いのであるが、これまた、大庭の国造家の管理下におかれておればこそ、遠く且つ奥ふかい熊野大社にも寄与し得たと見られる。
一般に、特定のひもろぎには、特定のみたまが立たれる。すなわち、特定の磐座には、特定の神霊が奉戴されうる。この宮山には、「本の磐境」の外に、「奥の磐境」などが、見うけられる。したがって、クツミケヌの命のみたまの外に、オホナムチの命のみたまも、太古から鎮まられて然るべきである。ここに、この二柱の大神の座が厳存する所、その後窩であり又は部下である出雲の神々は、容易に参集されうる。よって、国造の使命である出雲の「総斎」が、この元つやしろにおいて遂行されうべく、また、得たのであろう。なお、さらに、この祭主みずからの祖神、アメノホヒの命のみたま、ひいては天照大御神にかかわる座も、また求められうるのである。しかし、形而上の領域については、論究が差控えられる。ただ、現在の神魂神社の摂社として、その本殿の左(北)脇の最も近くに、杵築大社が、ついで、熊野大社が、古く(明治以前)から設置されてあること(18)を、付記しておきたい。
この外にも、この(神魂)神社の裏の山中には、技工的な岩石群が、その型も多様に、見いだされる。例えば、その「本の磐境」の西脇は、学園の運動場等で一部開拓され、無土器時代のチヨッバー(石器)も転がりでたが、そこに、幅が二、三メートルの巨石が数個、「末の磐境」のように単独で、又は、高さ三メートル余りに積上げられて、意味ありげに露出されてある。また、その東側は、美事な榊の林であるが、それを越えた雑木林の下に、「奥の磐境」に似た黒石集団が頭部をだし、それの山ひだにそって、なお点在するようである。この幽すいの原始林にわけ入ることはまだ困難であるが、その調査がすすみうるとすれば、太古の祭祀の移跡の全貌が判明されるであろう。このような規模の大きい磐座群のあり方は、すでに、大和の三輸山などで見かけることができる。この宮山の古代磐窺の存在が、今から十年前に気付かれると、そこの大神(おおみわ)神社から直ちに特に奉幣をうけたのである。
周知のように、この(大和)大神神社も、オホナムチの命のみたまを祭祀する。その起原は、その「幸魂(さきみたま)・奇(くし)魂」(『日本書紀』)が申されし「吾をば、ヤマトの青垣、東の山の上にいつきまつれ」(『古事記』)に、応えまつったものとされる。それを告げられた場所は、「海を光してよりくる」(『記』)、または、「海を照してたちまち浮び来る」(『紀』)ところで、海岸である。それには、出雲の稲佐の浜辺が、想定されうる。それならば、ヤマトは大和ではなく日本とも読みうるから、その「青垣、東の山の上」は、南方の奈良ではなく、まさしく大庭の宮山となるのではあるまいか。いずれにせよ、オホナムチの命のみたまを(大国主の)神として、この大庭の磐座に「忌み瀞め仕へまつる」ことが果されてあるとすれば、おのずから、出雲大社の至聖所、ご内陣の配置などが、その根源への志向を残存しているのであり、また、その重大神事が、「今でも新嘗祭を『大庭の神事』とよぶ(19)」ほどの慣習の根深さともなるのであろう。
しかし、この雄大な磐座をもつ斎場は、近世、意識的には一般に全く忘却されて了った。「神魂社古図」として、目下のところ最古の明和四年(一七六七)のそれには、大庭の宮山が、広く境内地として描かれてあるが、樹木の外に、それらしき存在の指摘は見当らないのである。もとより、そこでの国造自らによる祭祀は、世に開かれざる幽斎であったであろう。しかし、その秘められた神事も、すでに途絶えてしまったようである。ここは、雑木雑草の繁茂に全くまかせられてきたことでもわかる。それは、時代の趨勢として、止むを得なかったことと見られる。この宮山の北方、平野を隔てて呼応する茶臼山(一七一・四米)の磐座の事例のように(20)、荒廃に帰せしめられなかったことを、.むしろ慶賀すべきであろう。
一般に、後世になるほど文明は発達すると云う。とくに近代、見られ聞かれ触れられる現実態の分析になる科学の寄与は大きかった。しかし、それの依拠する五官(眼耳鼻舌身)をもあらしめる生命そのものの根源は、軽視ないし無視されてきた。かくて、その本来の深く清明な直覚は逐次に衰微して、唯物主義等の横行となった。神霊の存在も、己が観念の所産として、それを斎(いつ)きまつることも拒否ないし形骸化されてきた。かくて、道義も芸術も、さらに青少年の気慨すらも、根源からの活力を喪失させられつつある。よって、現代文化の行詰りによる地上人類の破減がせまっていることは、もはや世俗の常識にすらなりつつある。これに対し、その生命の「本」に報い、その「始」に反(か)えることの徹底が、今こそ真摯(し)に求められるのである。ことに、祭祀そのものの「報本反姶」にこそ、天関打開の威稜がほとばしりうる。これは、その一つの参考資料のための拙き論究にとどまる。
註
(1)
千家尊統『出雲大社』、昭和四三年、五四年、学生社、一四八・九頁
(2)
神社木庁教学研究室(編)『古代の神道観』、昭和五〇年、神社木庁、五一頁
(3)
村田正志(編)『出雲国造家文書』、昭和四三年、清文堂、六〇一頁
(4)
千家、前掲書、一七三頁
(5)
同右、二一一・二一二頁
(6)
村田、前掲書、四四八頁
(7)
同右、六九八頁
(8)
千家、前掲書、一八二頁
(9)
同右、一八四頁
(10)
島根県教育委員会(編)『出雲意宇六社文書』、昭和四九年、島根県教育委員会、八一三頁
(11)
同右、七三頁
(12)
同右、四二〇―四二二頁
その例示として、第三の「神魂社祝詞案」の全文を、つぎに掲げる。カッコ(括弧)内は筆者注。表現は幼稚とは云え、当時の教養もうかがわれうる。そのうち、「いさなきの大明神のひのまなこ」の「ひのまなこ(日真名子)」は蛇足か。それでなければ、それは「能野の大神、クシミケヌの命」の冠詞である。もっとも、当時の熊野大社の上社の祭神は、天照太神(伊勢の神)とされていた。「あおかき(青垣)山にふとしき立て、ち(千)木たかく、かけまくもおそろしくいはゝれたまふいさなき(伊弉諾)の大明神のひのまなこの御宇津のひろまへ、御本地阿弥陀如来、いさなみ(伊弉冊)の大明神の御うつのひろまへ、御本地十一面の観世音ほさつ(菩薩)の御うつのひろまへ、伊勢の神のき、くまの(熊野)の大神のうつのひろまへ、と(外)山の大神のうつのひろ前、あめ(天)か下つきかためたまへるきなつき(杵築)の大明神の御うつのひろ前、さくさ(佐草)の大明神のうつのひろまへ、さた(佐?)の大明神のうつのひろ前、ゆや(揖夜)の大明神のうつのひろ前、ならひに五百ゆうよ(有余)の大小神のうつのひろまへに、御くう(供)御へい(幣)御くた(果)物び(備)進し奉る、あいみん(哀愍)納しゅ(受)せしめたまへ、右きねん(祈念)はてんかたいへい(天下泰平)、国土あんをん(安穏)、五こく(殻)ふにょう(豊饒)、神ほう(宝)はんゑい(繁栄)、ね(か)内あんせん(安全)、大たんな(檀那)武運長久、そくさい(息災)ゑんめい(延命)、子孫はんしゃう(繁昌)、殊は万民あんせん、諾願成就、かいりゃう(皆令)まんそく(満足)に、しゅこ(守護)せしめたまへ、さいはい(再拝)?敬白」(「出雲意宇六社文書」四二二頁)
(13)
同右、一〇二頁、一四六頁、等
(14)
妹尾豊三郎『出雲富田城史』、昭和五三年、山中鹿之功幸盛顕彰会、八一頁
ここには、その死因につき、「忠氏は蝮に噛まれた」とあるが、想像による異説とされる。
(15)
拙稿「出雲における熊野大社の原像」『神道宗教』一〇一号、昭和五五年一二月、三一頁
(16)
同右、二一―三〇頁
(17)
村田、前掲書、四四八頁
(18)
橘三喜(一六四五―一七〇三)『一宮順詣記』(写本)、国学院大学図書館蔵、一〇丁
(19)
千家、前掲書、二一八頁
(20)
茶臼山(島根県松江市山代町)は、『出雲国風土記』における意宇郡の「神名樋(かむなび)山」である。その頂上(一七一米)は、戦国時代(十六世紀)、領主尼子の軍勢によって城塞が築かれた。そこにあった磐座が崩されたのか、その跡らしきものが見られる。しかし、その(頂上から)西方、八合目辺りに、崩れた形の磐座があり、表面平らな盤右もある。当時は、その下(西)方の麓にあった山代(やましろ)神社の元つ宮として、いまも崇敬されている。同社は、延宝八年(一六八○)、その山麓からさらに西方一キロメートルの地点(古志原町)に移転されて、現在にいたる。もとより、それ(山代神社)は、式内社であり、旧郷社である。
(以上は、昭和五十四年十二月三日、神道宗教学会における報告、「出雲における二大社の原像」の後半の内容を、その後の再調査により補充したものである。) |